自動車とCN_vol03

自動車100年超の歴史を振り返る【自動車のCN化-その真実 全てBEVになる日は来ないvol.05】

最初の「内燃機関で走るクルマ」

振り返ってみると、1995年前後に日本で「第1次BEVブーム」と言えるような動きがありました。実用可能な車両として開発されたBEVを私が体験し始めたのもその頃。当時、電池はまず既存の鉛-酸電池、そこにニッケル-水素(Ni-MH)電池がやっと使えるようになってきた、という時期でしたが、BEVにとって最大の問題が「電池のエネルギー密度」である、という実体験はあの頃からずっと続いています。

この第1次ブームは、「化石燃料が尽きる時はそう遠くない」という’70年代から何度も浮かび上がっては押し込められてきた危機感を背景にしたものでしたが、BEVの弱点、限界を目の当たりにする機会でもありました。それを知った上で、でも、化石燃料を使い続けることはできない。「全てのクルマがBEVになる」しかないのだとしたら、自動車に依存する生活を、そして社会システムを、大きく変えるしかない。その結論に到達するのはさして難しいことではありません。もちろん、個人から社会全体に関わる生活を、同時に社会インフラまでを、「BEVだけのクルマ社会」に対応させるのがどれほど大変なことなのかは、当時でも思い描くことができました。今はそれがもっと明確に、しかも複雑に絡み合う状況を描き、考えることができるようになっていますが。

ここでちょっと「歴史」のお話。と言っても百余年前に遡るだけですが。
「内燃機関を積み、それを動力源として車輪で走行する乗り物」が“発明”されたのは、1886年のこと。ゴットリーブ・ダイムラーがヴィルヘルム・マイバッハ他の協力者とともに作り上げた単気筒エンジンを、4席対座型の馬車に搭載した、まさに「馬なし馬車」。彼らはその前年に簡単な構成のエンジン付き2輪車“Reitwagen(riding vehicle)”も製作している。もうひとつはカール・ベンツが製作した、やはり単気筒エンジンを、こちらは独自に製作した3輪車の座席後方に水平に置いて後軸を駆動する車両。1885年には形になっていたという記述もある。

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最初の「内燃機関で走るクルマ」〜ベンツ:1885年、当時ドイツ・マンハイムに設立された「ライン・ガスエンジン製造会社」の技師長だったカール・ベンツが完成した世界最初の「内燃機関で走るクルマ」。専用骨格の後部に954cc単気筒、後年の計測では0.9hpのエンジンをクランク軸を垂直に向けて座席後方に搭載、布ベルトとチェーンで後輪を駆動する。当時最新流行の乗り物だった自転車からも多くを取り入れ、操舵機構の設計・製作の手間を省くべく前1輪の3輪形態を選択した。動力断続・変速機構、駆動軸の左右差動機構など、その後の自動車技術の始祖となる内容を持ち、1886年にはそれらを包括した特許も認められて「Patent Motorwagen」と呼ばれるようになる。近年までダイムラー社直属の職能訓練校の学生たちが往時の製作方法で1台ずつ”製造”を続けていて、そのうち1台は日本にも寄贈され、今はトヨタ博物館で動態保存されている。オリジナルの”1号車”はミュンヘンのドイツ博物館が所蔵する。(写真:Daimler)

ダイムラーとマイバッハは、ニコラス・オットーが参画した「ガスエンジン製造会社」の工場長と主任設計者を務めていた状況から独立。シュツットガルト郊外のカンシュタットで、当時としては高速回転する4サイクル・エンジンを、定置用動力源として石炭ガスを燃料に使っていた時代に、石油系燃料を使うことで、道路や水上、鉄路などを走る乗り物の動力源になるというビジョンの元に開発に取り組んでいた。

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最初の「内燃機関で走るクルマ」〜ダイムラー:ニコラス・オットーの「ドイツ・ガスエンジン製造会社」から独立したゴットリープ・ダイムラーは、ヴィルヘルム・マイバッハらの協力を得てガソリンを燃料とする単気筒エンジンを製作。1885年にはこれをまず簡単な構造の2輪車に搭載、翌1886年には馬車の床を切り取ったところに組み込んだ。車両形態も前軸の中央を垂直軸(キングピン)で車台に止め、その左右を馬が前方から引いて車軸全体が回転して向きが変わる機構を減速歯車を介して動かすようにするなど、車両の構成もほぼ馬車のままであって「Motorkutsche(動力付き馬車)」と呼ばれるようになる。ダイムラーたちは続いて小型ボートにもエンジンを搭載。”世界初の内燃機関を動力とする”2輪車、船舶は彼らの発明とされる。1890年にはシュツットガルト郊外のカンシュタットに「ダイムラー・エンジン会社」を設立。ダイムラー社とベンツ社は1926年に合併するが、今日に至るまでその本拠が置かれる地となっている。
写真:Daimler

一方、ベンツはマンハイム(シュツットガルトから北西に約100km)で、まず「マンハイム・ガスエンジン製造会社」を興して2サイクルのガス・エンジンを製造。しかし経営権を手放さざるを得なくなって離脱。新たな協力者とともに設立した「ベンツ商会ライン・ガスエンジン製造会社」で2サイクル・エンジンを製造・販売しつつ、彼自身が切望していた「エンジンで走る乗り物」の実現に取り組んだのでした。
歴史書によれば、エンジンで走る車両の開発製作を進めていた頃、ダイムラーのグループとベンツは、お互いの計画を知らなかった、とされています。しかしどちらも産業用動力装置としての定置ガス・エンジンを専門にしていたのだから互いにその存在は知っていたのではないでしょうか。いずれにしても「液体燃料を使う内燃機関で道路を走る車両」を実現するだけの技術的背景がぎりぎりで整いつつあったからこそ「発明」が可能になったわけで、それを誰が「最初に」形にするかは、技術科学の世界ではいつも「競争」なのです。
こうして生まれた「自動車」ですが、ダイムラーと彼のグループは「内燃機関で何かを走らせる」ことを追いかけていたように思えます。だから今で言う車体は馬車のままで済ませたのではないでしょうか。これに対してベンツは明らかに「エンジンで走る車両」の実現に集中していて、実車の完成と並行して車両形態から関連技術まで特許を取得しています。その結果、今日ではこのベンツの3輪自動車が「Patent Motor Wagen」と呼ばれているのです。その車両全体に関わる特許交付は1886年1月29日。そしてそこには「自動車としての技術」の基本が織り込まれています。
例えばエンジンの出力は布ベルトを梃子(テコ)で滑らせることで駆動用プーリーに乗って伝達が始まる。布ベルトが金属プーリーの上で滑っている状態から、レバーでテンションをかけることで摩擦を発生させて発進・走行します。これが発進クラッチの役割で、さらにそのプーリーは大きさの異なるもの2つを並べてあって「変速」機構としても働きます。
そして3輪車であるのも意味があって、前1輪を転舵して旋回する時に3つの車輪が同じ一点を中心にした円を描く。これが前2輪だと4輪が同じ中心を持つ円を描いて滑らかに旋回するためには、内側前輪をより大きく転舵する必要があります。この「アッカーマン=ジャントーの原理」は馬車時代にすでに知られていたものですが、ベンツの自伝にはそのためのリンク機構を設計・製作するのに時間がかかるので前1輪にした、と記されています。そこにも、現実に走る車両をできるだけ早く作らなければ、という意志が読み取れます。
ところが後輪に目を向けると、旋回時に左右後輪が描く円の半径が異なり、回転速度が異なるのを許容するためのメカニズム、差動歯車(ディファレンシャル・ギア、いわゆるデフ)は組み込んである。もちろん当時の職工の手加工による一品ものだったはず。ちなみにダイムラー1号車の操舵機構は、馬車のままの前軸センターピボット方式。これは前に繋がれた馬が引いて曲がるからこそ成立するレイアウトです。<続く>

(両角岳彦)

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